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券をいただいたので先日見てきた映画、「母べえ」について時折思い返して考えている。僕が気になっているのは、描かれていた時代、出来事についてではなく、ひらたくいえば作り手がこの作品を作る際の立ち位置、のようなものについてだ。 ストーリーや画面の力、演技に感動もし、暴力的な描写をあえて描かないことによって分かりやすい悪人を作らなかった節度に関心もした。 けれども見終わって作品に乗り込めてなかった自分を感じる。どうも観客を誘導する語り口、視点がばらばらだったような気がしたのだ。 ナレーションは大人になった母べえの次女。ここで物語は彼女の視点を通したものになると思えば、カメラは少し引いた客観的な距離を保ち、あくまで母吉永小百合を中心に撮る。 それでは観客(特に女性は)主役である母べえと同化して物語を生きればいいのかというと、繰り返される主演女優のアップにそれも妨げられる。カメラは語る「美しいでしょ。吉永小百合」、たしかにそうだし、それを否定はしないけれども、これは明らかに男の目線だ。 一度生み出された作品は、作者の手を離れた瞬間から誰が、どのように見て、感じてもかまわない。確かにそうだと僕も思う。しかしその一方で、エンターテイメントの作り手はやはり「だれに、どう見てほしいのか」という照準をまず持ってなければならないと思っている。 でも大勢の人と資本が関わると、照準を持っていてもそれを最後までぶらさずに仕上げるのは難しいことなのかもしれない。力量か幸運か、それを成し遂げられたものだけがきっと数少ない、傑作と呼ばれるものになるのだろう。 いろいろ、勉強になります。 ラストシーン、最後の台詞にいたる展開は2時間つきあったキャラクターと同一人物とは思われず(見た目についてじゃありません)、映画全体のテーマをはっきりさせたいがために入れた付け足しに見えたのですが、原作ではどうなのかしら。 |
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